シングルマザーucoです。
今日は兄のお葬式でした。
4日前の8/3、兄が亡くなりました。
先日ブログで兄のことを書いてから、まだそんなに経っていないのに。
日に日に言葉数が減り、体が動かなくなり、話せなくなり、寝ている時間が長くなり、、。
3日間起きずに、飲まない、食べない、、となり、いってしまいました、、。
在宅医療のお医者様から「今晩が山場」と言われて、母と私と兄のそばで横になっていました。
母が兄の呼吸が止まったことにすぐに気が付き、寝ていた私も飛び起きて、最期を迎えました。
速かったです。
ともかく最後の進み具合が本当に速くて。
兄に食べさせようと思って買って帰ったワッフルも、その日から食べることができなくなり、。
桃なら食べられたからと思って、次の日に箱で買って帰った桃も、もうその日は何も食べることができなくなり、、。
仕事から帰宅して、まずは兄のところに行き、「今帰ったよ。大丈夫?」と聞いた時に、もう兄は話せなくて、右手で親指だけ立てたグーのポーズで大丈夫と言ってくれた、それが兄と最後に取れたコミュニケーションになりました。。。
兄は話せなくても、私の声が聞こえてちゃんとグーで返してくれたのが、本当にせつなくて。
どんなに窮屈で孤独で不安だったかと思うのです。
それでも、最後の力を振り絞って、妹にグーで返してくれた愛情は私の宝物です。
兄という人
兄は、昔から勉強もスポーツもできる、しかも要領のいい人でした。
そんなにガリ勉していないのに、要領よくこなす人でした。
子どもの頃は、3人兄弟で子ども部屋で布団をしいて、毎週ドリフを見て3人でふざけたり、普通の兄弟でした。
兄が中学に入ると、だんだんに口数も減って、家族の中ではあまりしゃべらない人になりました。
それでも、たんたんと要領よく何でもこなし、就職して結婚しました。
2人の子どもに恵まれたのは遅かったけれど、仕事はバリバリ、商社マンとして中国をメインに大活躍していたようです。
今日のお葬式のお花もものすごい数で、世界中の方からお花が届いていました。
最期はインドに赴任になって社長になりました。
単身赴任も長くて、その分家族は寂しい思いをしていたみたいだけれど。
ともかく仕事大好き人間で、会社での評判はとてもよかったようです。
子どもたちも来てくれました
今日のお葬式には、ちゃんと兄の子供2人も来てくれました。
当たり前だけれど、兄の生前には来てくれなかったから、来てくれてほっとしました。
小学校6年生の兄の娘は、泣いていました。
どうして兄がいってしまう前に会いに来てくれなかったんだろう、、、って未だによく分からなけれど、、。
娘は会いたかったんじゃないかなぁ、、、って思いました。
兄が娘のことが大好きで、娘も兄のことが大好きだっていうことは、あちらの親戚の方もよく分かっていました。
もう、今更何を書いてもしょうがないのだけれど。
でもともかく、小さい家族葬でお花がいっぱいのいい式でした。
享年50歳。
若いからみんなに惜しまれて。
安らかにいい表情をしていきました。
仕事で昇りつめて病に倒れた後も、3回の大手術、放射線治療、最後まで抗がん剤治療を何回もし、必ず治ると信じていました。
本当に立派で、尊敬します。
あの要領の良さは、本当に羨ましい。
どうやってたんだろう。。。
兄は、口数は少ないけれど、むやみやたらに怒ったり、感情的になることはあまりない人でした。
頑固なところはあるけれど、優しいところもあって。
介護してくれる母にいろいろ指示したりもしていたけれど、母を気遣う優しさも最後までありました。
大丈夫じゃないのに、「大丈夫!」と相手を安心させるその姿勢は、きっと仕事で働いてくれる下の人たちをこうして励ましていたのだとすぐに分かりました。
大丈夫じゃないとき、大変な時に「大丈夫」と言うことで、本当にその場が「大丈夫」の空気になる、そんな感じでした。
かわいい兄との会話
兄が退院して最初にうちに来た時には、どう言葉をかけていいか分かりませんでした。
ほどなくして、兄は自分の状況や気持ちを言うようになり、コミュニケーションが取れるようになりました。
最初は死期が近いことへの不安と、本当の自分の家に帰ることができない不満で情緒不安定でした。
母がうまく薬を飲ませることができるようになり、だんだんに許容範囲内で母も私も兄の話が聞けるようになりました。
「俺は本当に死ぬんだぞ。」
「分かってんのか!」
「お前は全然分かってない。」
「俺を信じろ。」
「お前は本当にばかだからな。」
「わかんねえんだろ。」
そして、病気のせいもあり、子どものようになってきて、なんだかかわいい会話もいっぱいしました。
昔の兄とは少し人格が違うけれど、このちょっとへんてこなかわいいバージョンの兄は、結構私の子どもたちに人気?が出ました(笑)。
「ゆ~こ~。キットカット持って来い。」
「シューアイス持ってこい。」
「お母さん呼んでこい。」
「どーして分かってくれないの。」
「もーやめてくれよー。」
「かんけーねーだろー。」
「どーせお前がわがままなこと言ったんだろ。」
「子どもに会いたい。会わせてくれ。」
「今から運転して連れてってくれ。」
「こいつ(母)が嘘ばっかり言うんだ。」
「弟は今何してる?弟に電話して。」
兄も、私の子どもたちのことが好きになったようで、「おじさん」として話をしてくれていたようです。
子どもたちにしたら、商社マン時代のおじさんとは話したことないのに、この病気になったヘンテコおじさんとコミュニケーションが取れたのがよかったみたいでした。
兄が体が動かなくて、子どもたちが男子パワーを振り絞って、階段を1階から2階まで1段ずつ持ち上げて運んだこともありました。
兄が頑固すぎて、私の長男が演技で兄にブチ切れたこともありました。
今となっては、全部がいい思い出すぎて、忘れないようにここに書いておきます。
私にとっての兄
兄の奥さんと子どもたちにしたら、仕事人間の兄には不満があったと思うのですが。。
私にとっては、「優秀で優しい兄だった」と思います。
同じ両親から生まれて、同じ家で育って、父の転勤で一緒に海外を転々として、一緒に大人になった。
私と兄との共通点は「中国」だったりもしました。
私が上海に留学した後すぐに、兄は上海の近くの浙江省に赴任になり、長く中国にいました。
私も最初は海外と関係のある仕事をしたいと思っていたから、スケールは違えど興味は同じようなところにあったのだと思います。
兄はまだまだ自分の子供たちの成長を見たり、家族の為に仕事もしたかったと思うけれど、志半ばいってしまいました。
立派な人生だったと私は勝手に思います。
誇れる兄です。
あとは残された者で支え合って生きるしかないです。
私は微力なシングルマザーだけれど、微力ながらできることはたくさんあります。
今後、兄の奥さんと子どもたちと、どの程度関わることができるかは分かりませんが、何かできることはあると思います。
最後に兄がくれたもの。
それは、普段コミュニケーションが取りにくかった家族の絆です。
兄が最後こちらに帰って来てくれたおかげで、こちらの家族(母、もう一人の私の兄、私と私の息子2人)は同じ方向を向いて協力することができました。
確かにこの2か月間は大変だったけれど、かけがえのない時間を送らせてもらいました。
このコロナの中、病院で最期を迎えるんじゃなくて、実家でみんなが少しずつ関わることができて、本当によかった。
母のアレンジ、素晴らしかったです。